心憂しども旅路は続く

稼いだ日銭で国内を旅する24歳サラリーマンの雑記。

中銀カプセルタワー① ~黒川紀章設計の現代建築に潜入~

最近とてもおもしろいものを観てきました。

過去の旅について書きたいことはたくさんあるのですが、

「鉄は熱いうちに打て」です。

今回は旅行記というよりは体験記という感じで書きたいと思います。

行ってきたのは中銀カプセルタワーです。

 

中銀カプセルタワーとは?

建築の勉強をしている人ならピンとくるかもしれません。

あとは新橋や汐留あたりに通勤している人は、目にとめているかもしれませんね。

とはいえ、全くの門外漢の私は友人から見学の誘いを受けるまで、恥ずかしながら名前も存在も知りませんでした。

私のような人も多いかと思いますので、まずは簡単に中銀カプセルタワーについて解説します。

建築に詳しくない人でも、黒川紀章氏という人物の名を一度は聞いたことがあるかと思います。

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日本の現代建築の先駆者、世界的に知られている人物です。

もっとも私の年代だと、都知事選に立候補していたおじさんというイメージが強いんですけどね。

そんな彼が設計し、1972年に竣工した世界初のカプセル型のマンションです。

カプセルホテルではありません。カプセルマンションです。

しかし、画期的だった建物も、今や築50年近く。

老朽化により建て替えられるかもしれないとのこと。

今は保存を目指す住人達がさまざまな活動を行っています。

www.nakagincapsuletower.com

プロジェクトでは活動の一環として、内部の見学会を開催しています。

住人の方がお住まいになっている現役の建物を観られるまたとない機会です。

今回は友人が申し込んでくれました。僥倖です。

 

外観を眺めてみる

さて、新橋駅から汐留方面に歩いていきます。

住所としては銀座8丁目ですが、銀座の端も端なのです。

新橋駅、汐留駅築地市場駅の三角地帯の中間くらいです。

汐留の電通ビルの歩行者デッキまでくるとその外観を眺めることができます。

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なんとも個性的な外観です。

カプセルがテトリスのように積み重なっています。

無機質なようでいて、細胞のような有機質じみたものも感じますし、

ひとつひとつの窓もよく見てみると、生活感に溢れています。

「中銀」の文字が刻まれた赤錆びた塔屋も外観にアクセントを与えています。

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手前には首都高が通っています。

何も知らずにここを通ったら、さぞ目を惹かれることでしょう。

個人的には、隣の「髙𣘺監理」のビル看板の味も好きです。

跨線橋を渡り、ビルの真下に行ってみます。

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近くで見ると、その立体的な造形がよく観察できます。

カプセルのひとつひとつの間に隙間がある、独立した造りです。

また、いくつかのカプセルから長い管が下へ伸びています。

なんなんだろうとこの時点では思っていましたが、この後わかることになります。

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表示が「中銀カフセルタワーヒル」になっていました。

挨拶代わりの強烈なジャブを喰らったような気持ちです。

表玄関の住宅表示がまさか修繕されていないとは………

 

さて、参加者もぼちぼち集まり、プロジェクトの代表の方がお見えになりました。

代表の方もここに魅入られた住人であり、なんと10個以上のカプセルを購入したそうです。

そう、ここは賃貸ではなく分譲のマンションなのです。

いまではプロジェクトの一環で、マンスリーの賃貸もやっているそうですが、分譲である以上住人たちによる管理組合があります。

管理組合は住人たちの議決で物事が決まりますが、建て替えと保存の間で住人達も真っ二つに分かれているそうです。

分譲である以上、住人たちがこの建物の命運を握る、ということになります。

著名な建築がなぜ建て替えの危機に?と思っていましたが、こうした事情があるのですね。

こればかりは外部の人間がとやかく言っても仕方のないことです。

ただ、保存派の住人達の熱意はひしひしと伝わってきます。

こうした見学会や出版活動、映画のロケ協力など手広く行っています。

クラウドファンディングも行ったりしているそうです。

そして何よりも、建物の説明をしている代表の方がとても楽しそうで誇らしげに見えました。

見学者たちも熱意にあてられてか、皆一様に期待に胸を膨らませているように見えます。私も同様です。

さて、ここからは内部の見学です。

表玄関から裏口に移動します。

 

②に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

前橋② ~「ナンバーワン」にも「オンリーワン」にもなれなくとも~

前回の記事 ↓

travelthinking-mp3.hatenablog.com

 

新前橋駅前橋駅中央前橋駅と移動してきました。

ここからは街歩きです。

千代田町周辺をぶらつくことにします。

 

前橋の商店街を歩く

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前橋銀座通りです。

ここは前橋の歓楽街、飲み屋が集中するエリアです。

もっとも、午前中ではその活気を窺い知ることはできません。

ただ、営業しているかどうかは判断に困る風体のお店が多いです。

日曜の午前中でも歓楽街なら、頭を抱えながらふらふら歩いてる人がいてもおかしくないですしね。

街並み自体は猥雑というよりかは、とてもよく整備されて見えます。

歩行者天国というわけではないのですが、この通りでは路面の色が統一されて明るい印象です。

それでいて、レトロな建物も多いので、画一的な繁華街という感じはしません。

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大きなズワイガニもいます。

 

銀座通りを歩いていくと、飲み屋よりも普段使いの路面店が増えていきます。

大きなアーケードの入り口が見えてきました。

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ここも前橋の歴史ある商店街、オリオン通り商店街です。

さっそく中に入ってみます。

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なかなかに立派な全蓋アーケードです。

ここはかつて、オリオン座という映画館があったそうです。

オリオン座があるからオリオン通り

いい名前じゃないですか。

 

とはいえ、ここも人通りが多いというわけではありません。

そんな中、まだ開かぬうちに行列ができている店があります。

tabelog.com

群馬初のラーメン二郎がオープンしたばかりでした。

早くも前橋では受け入れられているようです。

もちろん、私も列に並びます。

なんだかんだで列に並んでから、1時間ほどは待ったでしょうか。

ようやくではありますが、ありついた二郎は無類のうまさです。

食べ終わってしばらく呆けてから、また歩き始めます。

 

広瀬川

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先ほどの中央前橋駅でも眺めた広瀬川です。

ここも柳の木が川沿いに並んでいます。

なんとも落ち着いた雰囲気です。

水は清らかですが、それでいて剛とした勢いもあります。

ここは利根川から取水した灌漑用水としての歴史があるのだそうです。

大らかな利根川の流れが、前橋の街へ自然の恵みを分かち合うかのようです。

川沿いには遊歩道が整備されており、散歩コースには最適でしょう。。

前橋は「水と緑と詩のまち」として広瀬川萩原朔太郎をシンボルにしています。

①の記事でも引用した萩原朔太郎はこの街の生まれです。

決して、前橋で過ごした時期が順風満帆というわけではないのですがね。

それでも、日本を代表する詩人を生んだ文化的な下地には、この風土が寄与するものもあったかもしれないなあ、と。

 

ここからはバスに乗り西方へ移動します。

後で知ったのですが、まだまだ前橋には大きな商店街があったようです。

中央通り商店街、弁天通り商店街、立川町通り商店街、とアーケードを持つ商店街が徒歩圏内に広がっていたのでした。

勉強不足で不覚をとった思いですが、後の祭りですね。

しかし、関東圏でこんなにアーケード商店街が残っている街も珍しい。

老朽化で撤去してしまうところも今は多いのです。

なんとなく、それも前橋という街のヒントになる気がします。

 

群馬県

バスで群馬県庁まで来ました。

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ではなく、

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近代的な高層のビルです。

もちろん理由もなく、わざわざ県庁に来たわけではありません。

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この素晴らしい眺めを観るためです。

県庁の最上階は展望台になっており、前橋のはるか遠くまで見渡せるのです。

しかも、これが無料で入場できるのですから、至れり尽くせりです。

美しい山々に抱かれた前橋の街が一望できます。

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上州の名山、赤城山。雪化粧しているのが見えます。

この展望台では「上州三山」と呼ばれる赤城山榛名山妙義山すべてが観られます。

おそらく、群馬でも一度に見渡せるのはここだけでしょう。

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広々としたロビーは休憩にもうってつけでした。

しばし、山々を眺めながら、ぼんやりとします。

実は、前橋がすべての県庁所在地の中でいちばん海から遠いそうです。

長野や甲府、奈良をおさえて、というのはなんとも以外に思えます。

でも、ここを流れる利根川は千葉の銚子まで滔々と流れていくのです。

「前橋のこと、何も知らなかったんだな……」

 そんな陳腐な恋愛映画のようなセリフが思わず脳裏に浮かびました。


 勝負では表せない前橋の独自性

「高崎VS前橋」。

そんな印象を持ってやってきたわけですが、実際のところは比較のしようがないと思いました。

というのも、前橋という街にマイペースというか気にしないというか、そういう気風を感じたのです。

もちろん、歴史的に見れば主導権争いはあったのでしょう。

しかも、「商業都市VS行政都市」というある意味わかりやすい図式もあります。

でも、前橋を歩いて感じたことに、「もともとあるものを少し洗練させる」という点があります。

例えば、商店街。商店街の路面が統一されていました。

工夫次第で「古い」も「レトロ」に見えるものです。

また、アーケードも単に放置するだけでは、今日までは残りません。

広瀬川も、柳と遊歩道を整備するだけでも文化的な空間に様変わりです。

でも、それが目に見える発展に繋がるかというとそうとは言い切れません。

そういう点では高崎のほうが「商業都市」らしい街なのだと考えます。

でも、その一方で前橋は文化的ストックを活用するという選択をしているのではないでしょうか。

 

文化的なストックがない街はありません。

しかし、それが街の発展に必ずしも相容れるものではないのです。

ややこしい話ですが、古い商業地だって文化的なストックです。

でも、開発はやはり必要なことであり、そういう場所もやがて消え行きます。

(さらにややこしいですが、新しい商業地も次世代のストックになりえます。)

 

前橋は今あるストックを大事にしながらもまちづくりをしているようにも見えます。

ただ、やっぱり難しいところですね。

それが魅力的に見えるかどうかは、結局のところその人次第なんですよね。

少なくとも私には前橋はとても魅力的に映りました。

でも考えてみると、もっとわかりやすい文化的なストックがある街もごまんとありますよね。

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川越はわかりやすさがあるから観光地たりえますが、前橋を観光地としてとらえる人は、そういないと思います。

しかし、商業地やベッドタウンの利便性という土俵に上がってしまうと、軍配はどうしても高崎に上がります。

 

だからこそ、一度、他の街のことは考えずに、純な目で前橋を観る必要があるのだと考えます。

というのも、比較で考えてしまうと、「独自性」というものは引き合いに出すタイミングってないのかもしれないですね。

比較しようがないから「独自性」といえるのでしょう。

街はどうしても利便性という比較の基準からは逃れられません。

ベッドタウンも多い関東近郊ではその傾向が強いと思います。

それゆえに、商業も街並みも画一化しやすいのは言うまでもないです。

ただ、少なくともそれは住む人、通勤する人を考えれば自然なことです。

そこにおもねりきらないから前橋が「近くて遠い」県庁所在地なのかもしれません。

まあ、私が観たのはあくまでほんの一部分です。

講釈を垂れるには、あまりに断片的でしょう。

だから、考察はいったんここまでにします。

 

でも、やっぱり言いたいことはあるのです。

豊かな山々、利根川の流れ、文化の香り、、、

悪い街なんてありはしませんが、前橋はとってもいい街なんです。

尖ってないけど独自性はある、そんな路線でいいのではないですかね。

オンリーワンと呼ぶには大袈裟かもしれません。

でも、そのささやかな独自性がキラリと光る、それもまた魅力だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前橋① ~近くて遠い県庁所在地の不思議~

群馬県でいちばんの街は?という問い。

 

「高崎」……模範解答ですかね。

「みなかみ」……面積に着目したんですね。

「館林」……暑い暑すぎる。

 

「前橋」

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………この画像が思い浮かんだ人はネットの見過ぎです。

でも、高崎のイメージはあっても、前橋について具体的なイメージを持っている人はやはり少ないのではないでしょうか。

要因はいろいろあると思います。

まず、高崎は都心から電車で一本。路線名もまさに「高崎線」です。

前橋は高崎より若干遠いうえに、両毛線に乗り換えの必要があります。

私自身、高崎へは何度か行ったことがあるのに、前橋には行ったことがありません。

そんな「近くて遠い」県庁所在地、前橋に行ってみることにしました。

 

新前橋駅から前橋駅

青春18きっぷを片手に高崎線を北上していきます。

高崎を通り過ぎ2駅。新前橋駅に到着します。

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ここで両毛線に分岐しますが、駅のホームから見えるのは工場。

ビル群や歓楽街はありません。

なんとなく新山口駅山口駅の関係性を思い出しました。

県庁所在地へ向かうのに幹線からローカル線に乗り換えるのは不思議な気分です。

 

朝、東京を出でて渋川に行く人は、昼の十二時頃、新前橋の駅を過ぐべし。畠の中に建ちて、そのシグナルも風に吹かれ、荒寥たる田舎の小駅なり。

萩原朔太郎(1925)「郷土望景詩」『純情小曲集』新潮社

 

「畠の中」とまでは言わずとも、100年近く前の雰囲気は今も変わらず。

県庁を前橋にとられた高崎市が報復のために、渋川方面にまっすぐ北上して鉄道を敷設するよう計画を推進したという説があるそうです。

 

もっとも、ここから前橋市中心街へは利根川を渡ることになります。

高崎から前橋を経由して渋川方面だと、利根川を渡ってもう一度利根川を渡って戻るルートになります。

単純に、架橋してまで迂回するルートをとるのが、急ピッチで鉄道を張り巡らせていた時代にはそぐわなかった、というのが真実な気がしないでもありません。

上記のエピソードは高崎と前橋の歴史的な主導権争いに脚色されているかもしれません。

新前橋から利根川を渡りたった1駅。前橋駅に着きました。

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あまり高崎と比べるのは、前橋の人に失礼ですが、それでもやはり小ざっぱりとした印象を受けます。

よく、高崎は「商業都市」、前橋は「行政都市」という分け方をされます。

性格が違う都市が県内でしのぎを削るというのはよくあることです。

 でも、駅を出た瞬間の雰囲気までこうも違うのはなかなか面白いです。

駅前からは整然とした大通りが伸びています。

その大通りの先に前橋市の中心街があります。

そちらへ歩いてみることにします。

 

中央前橋駅

1キロほど歩くと商業ビルも増えてきます。

そして、堂々たる威容の山脈も近づいてきます。

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ビルの合間からは雪化粧をした山々が覗きます。

前橋は盆地です。山を背後に街が続いています。

 

山に圧倒されていると中央前橋駅にたどり着きました。

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もしかしたら、この時点で混乱している人もいるかもしれません。

新前橋駅」、「前橋駅」ときて、「中央前橋駅」が登場しました。

こちらは上毛電気鉄道という私鉄の駅、桐生市西桐生駅まで結んでいます。

「中央」と名が付くのは、前橋駅より中心地に近いからです。

絹織物産業で栄えた桐生と結ぶ市民の足、と言いたいところですが、経営はかなり苦しいそうです。

桐生までの直線距離はJRより短いんですけどね。

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広瀬川の川べりに線路があります。

天気がいいこともあり、気持ちのいい朝の風景です。

赤城山から吹き降ろす空っ風が少々寒いですがね。

柳の木の下のベンチでコーヒーを飲んでいると、ゆっくりと列車が動き出しました。

まばらな乗客を乗せ、東へと向かっていきます。

静かな前橋の朝、こうして毎日が過ぎていくのでしょうか。

ふと、ここが関東の県庁所在地のど真ん中であることを忘れるような、牧歌的な光景でした。

 

ただし、この「牧歌的」というのを誉め言葉として使っていいのかは、少々考えないといけないということをここに付け加えておきます。

街として、うるさいくらいに活気があるほうがいいわけですからね。

先述の通り、ここは「中央」前橋駅

ここが前橋の中心街だったからその名があるわけです。

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幾度も旅先で観た風景ですが、やはり人影はまばらです。

そばには年季の入った雑居ビルがありますが、営業しているかは定かでありません。

 

ここからは中心街の千代田町周辺へと歩みを進めます。

 

②に続きます。

 

 

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【旅考】旅と観光について考える

前回の旅考 ↓

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旅の目的って人それぞれですよね。

絶景、歴史、温泉、食事……………

でも、これらをあえてひっくるめて言うなれば、なんという言葉が適切でしょうか。

意見はあるかもしれませんが、やっぱり「観光」でしょう。

観光協会、観光バス、観光案内所、観光ガイド、、、

「観光」という文字があらゆる旅の要素を内包しています。

絶景協会、歴史バス、温泉案内所、食事ガイド、、、

置き換えると、これはこれで一点突破で面白そうですが、

やはり旅の目的の多様性をイメージはできませんね。

「観光」という2文字でそれぞれが旅の目的を勝手に置き換えてくれる、なかなかに便利な言葉です。

 

今日はそんな「旅と観光」について考えます。

 

はじめに、今回考える「観光」とは、「観光業」ではありません。

つまり、産業としてではなく、概念としての観光をテーマにします。

観光業のほうがいまはコロナやらGoToトラベルやら、タイムリーな話題ではあるのですが、まあ先に書きたいと思ったことを優先しようと思います。

こんな感じでゆるくやっていきます。

 

まず、「観光」の辞書での意味を引用してみましょう。

 

かん‐こう観光クワンクワウ 他の土地を視察すること。また、その風光などを見物すること。観風。「名所旧跡を―してまわる」

広辞苑(第6版)』(2008)岩波書店

 

広辞苑先生が言うには、「他の土地を視察すること、その風光を見物すること」、だそうです。

「旅」の意味も辞書で引いてみましょう。

 

たび】 住む土地を離れて、一時他の土地に行くこと。旅行。古くは必ずしも遠い土地に行くことに限らず、住居を離れることをすべて「たび」と言った。万葉集2「家にあれば笥に盛る飯いい草枕―にしあれば椎の葉に盛る」。「―に出る」

広辞苑(第6版)』(2008)岩波書店

 

こちらは「一時他の土地に行くこと」、となっていますね。

旅のほうが漠然としています。

要するに、先に述べた絶景、歴史、温泉、食事といった要素を「観光」が内包し、さらに「観光」を「旅」が内包しているというイメージになります。

「絶景」ひとつを例にしてもいろいろあります。

深山の渓谷、一面の雪景色、雄大な海岸、眩い夜景、、、

ひとつひとつの要素もさらに様々な要素を内包する入れ子構造です。

深山の渓谷、、、層雲峡、奥入瀬養老渓谷大歩危、高千穂、、、

と、さらに想像した人もいるかもしれませんね。

マトリョーシカのごとく、要素は小さく細分化され、内包されています。

 

では、再び「観光」の地点まで話を戻しましょう。

「旅」が「観光」を内包するということは、要素の大きさとして「旅>観光」と表せるかと思います。

ここで一つ疑問があります。

「旅=観光」でないなら、他の要素も「旅」に内包されていることになります。

辞書的な意味は「一時他の土地に行くこと」です。

そう考えるなら、日々の通勤通学、買い物、友達の家に行く、

そういったことも「旅」に内包されるのかもしれません。

 

でも、やっぱりしっくり来ませんね。

辞書的な意味から離れて使われているのかもしれないです。

そこを自分なりにさらに考えてみます。

 

ひとつ考えたのは、「観光」という言葉が他に内包されるべき言葉と区別されていないという可能性です。

「観光」という語が変容している可能性もあります。

ここで今回のテーマに繋がります。

「観光」という言葉の語源から紐解いてみましょう。

 

観国之光 利用賓于王

(国の光を観る、用て王に賓たるに利し)

易経』より

 

なんと、古代中国の古典、五経の一つ『易経』が語源とされています。

意味は「国の威光を見て回ると、王に重用される存在になれるよ」みたいな感じでしょうか。

それが日本で引用されることになったきっかけは幕末、

オランダから幕府に贈呈された軍艦に「観光丸」という名前をつけたことだと言われています。

つまり、「観光」は幕末や明治の富国強兵、殖産産業、欧米列強に追いつき追いこせの時代に、個人のレジャーではなく「お国のために」の自己研鑽としての意味合いを持っていました。

江戸時代にも「漫遊」とか「物見遊山」という言葉がありましたが、そちらのほうが今の「観光」に近い言葉かもしれません。

福沢諭吉の『西洋事情』のなかでも、「各国の政治風俗を観る」という意味で「観光」という語を使っている箇所があります。

それが取って代わったのは明治後半から、経済発展と鉄道敷設によって、旅は伊勢参りや善行寺参りのような人生の一大イベントから気軽なレジャーになっていきます。

そのなかで「観光」という言葉もレジャー化していきます。

そして、戦後、高度経済成長の中で「観光」は国の産業として位置づけられます。

1969年、観光政策審議会によって「観光」はこのように定義されます。

観光とは、自己の自由時間(=余暇)の中で、鑑賞、知識、体験、活動、休養、参加、精神の鼓舞等、生活の変化を求める人間の基本的欲求を充足するための行為(=レクリエーション)のうち、日常生活圏を離れて異なった自然、文化等の環境のもとで行おうとする一連の行動をいう。

観光政策審議会答申(1969)「国民生活における観光の本質とその将来像」

さらに1995年にも審議会によって再定義されます。

観光とは、余暇時間の中で、日常生活圏を離れて行う様々な活動であって、触れ合い、学び、遊ぶということを目的するもの。

観光政策審議会答申(1995)「今後の観光政策の基本的な方向性について」(答申第39号)

 

さて、ここまで「観光」という語の変容に触れました。

おおよそ3つの定義に分類できるかと思います。

 

①語源としての「観光」(国の威光を見て回る自己研鑽)

②辞書的な意味としての「観光」(他の土地を視察、見物すること)

③政策としての「観光」(日常生活圏を離れて行う余暇の活動)

 

この中で、現代の私たちは③の意味で「観光」という語を使っています。

②に少し違和感があるのは、「視察」「見物」に、体験的、あるいは精神的な行為としての意味が入っていないと感じるからではないでしょうか。

そう考えると、「旅」に内包される「観光」は辞書的な意味より拡がりを見せている、ということになります。

ひとつの自分なりの答えとして、「旅>観光」というよりかは「旅≧観光」

「旅」に内包されていた観光以外の要素もニーズが多様化、顕在化していく中で、「観光」という便利な言葉がひっくるめて意味合いを持つようになったのではないでしょうか。

そして、その拡がりは今や「旅」に肉薄する勢いなのではないでしょうか。

 

………でも、まだ違和感があります。

「観光」という語の意味が拡がりを見せている、ということを自分なりの論拠で示したつもりですが、ともすると、それは「観光」という語の本来の意味からは離れてきているということでもあります。

言葉は変化するものです。

それは良いも悪いもなく自然の摂理のようなものです。

しかし、①のとおり、「国の威光を観ること」ならば、やはり違うと言わざるを得ないでしょう。

荒唐無稽と笑われるかもしれませんが、あえて私は拡大した「観光」を分断して再定義してみることにします。

 

まず、違和感の正体ですが、「観光」という字面にあるのかもしれません。

「光を観る」ですからね。

先述のとおり、「光」とは国の威光を指すわけですが、今や旅先で観るのは光ばかりではありませんよね。

夕張を旅した記事を書きました。

travelthinking-mp3.hatenablog.com

そこで観たのは威光とは程遠いものです。侘しいものです。

でも、それでも②と③の意味をとるならば「観光」には違いありません。

他にも、学生でインドを旅する人がよくいますよね。

ガンジス川で沐浴していたり、死体が浮かんでいたり、信仰の場となっているのを観て、死生観なんかに影響を受けるわけです。

でも、国やその地域の光かといえば、そうとは言い切れないかと思います。

 

1990年代イギリスでは「ダークツーリズム」という言葉が誕生します。

戦跡や災害被災地など、人々の悲劇や死、過ちに関する場所を訪問する観光のことをいいます。

代表的な場所としては、アウシュビッツ強制収容所チェルノブイリ原発事故現場、日本では広島の原爆ドームがその最たるものです。

もはや誇れるものだけが観光の対象ではありません。

それだけ、旅のニーズが多様化、顕在化した証左でもあります。

ただ、そういった側面が出てくると「観光」の語源と離れていくわけです。

「ダーク」はもちろん「闇」ですからね。

 

誰もが過去の歴史を省みることを目的に旅をしているわけではないと思います。

とはいえ、かつては「観光」が相応しかった場所も今やどうでしょう。

私個人の浅薄な知識でも、旅先でいろいろなことを考えさせられるのです。

過疎化、少子高齢化地域格差……否が応でも目に映るものが示しています。

そんな時、社会問題だけでなく、自分個人の問題を考えることもあります。

 

私はそこに「観光」に含まれている「観光以外のもの」がある気がします。

先ほどの「闇」というほどのものではありません。

でも、「光」があれば「カゲ」ができるものです。

その「カゲ」を観るという行為に、「観陰」とか「観影」という言葉を与えるのが相応しいと思います。

 

私は「観光」と「観陰」(あるいは「観影」)のどちらが優れているとか、そういう話がしたいわけではありません。

ただ、「観光」という語に感じる違和感をもとに、新たに分断して名前を付けてみた、というだけの話です。

学術的な話だと言ったら、国語学者に辞書の角で思い切り殴られるでしょう。

 

でも、私たちは観光をするときに、確かに「カゲ」を観ています。

私自身「光」が大好きですが、「カゲ」からも目を背けることができないのです。

この二つは双極に位置するものではないと考えます。

「光」と「カゲ」は同時に存在するものですしね。

「旅」で目にする心を照らすような「光」とその一方でどこかに必ず存在する「カゲ」。

そんな「観光」と「観陰」という二つの行為が、私なりの「旅」に内包された要素です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

川越② ~時代は移ろい、街に積もりゆく~

前回の記事 ↓

 

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川越の蔵の街を散策してきました。

ここからはメインの通りを抜けて路地裏に入ります。

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通りを抜けても石畳のいい雰囲気が残っています。

ぶらぶらと歩きながら、次の目的地を探します。

どのみち日帰り旅です。時間はあります。

のんびりと菓子屋横丁まで歩いていくことにしました。

 

菓子屋横丁

蔵の街が残る一番街商店街から路地裏を抜けること数百メートル。

新河岸川のほとりにほど近い菓子屋横丁までやってきました。

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その名が示す通り、細い通りに駄菓子屋がひしめき合っています。

ここは養寿院という寺院の門前、江戸時代から菓子の製造が盛んだったそうです。

関東大震災で東京が大打撃を受けたのちは、ここから駄菓子の供給地点として一層発展を遂げたとのこと。

でも、ここは2015年に火災が起き、何店舗かが焼ける被害に遭いました。

火災後に来た思い出があるのですが、確かに灰燼と化してしまったお店があった気がします。

それ以来ですが、横丁は見事な復活を遂げていたように思います。

火災の面影はどこにもありませんでした。

さて、ここまで歩いてきて、体が火照っています。

名物のサツマイモを使ったソフトクリームで一休みです。

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自然な甘さが歩き疲れた体に染みわたります。

新河岸川のそばのベンチでソフトクリームを食べました。

新河岸川といえば、板橋区高島平あたりの工業地帯のイメージでしたが、

ここまで遡ると水の澄んだ小河川でした。

かつてはここが江戸と結ぶ主要なルートだったのです。

サツマイモも舟運で江戸に運ばれて評判になりました。

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すぐそばにある養寿院の境内では紫陽花が咲いています。

てっきり紫陽花の季節にはもう遅いと思っていたのですが嬉しい誤算です。

ここで私はひらめきました。

確か川越には紫陽花の名所があったはず。

スマホで調べたところ、もと来たところを引き返したところです。

休憩を済ませてからそちらに向かうことにしました。

 

喜多院

蔵造りの街並みを通り過ぎ、大正浪漫の街並みを通り過ぎ……

2キロほど歩いたでしょうか。

喜多院まで戻ってきました。

川越大師の名でも知られる寺院です。似ていますが、川崎大師ではないです。

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広い境内は市民の憩いの場でもあるようです。

ここは徳川家康から絶大な信頼を受けていた天海僧正ゆかりの寺です。
名物といえば「日本三大羅漢」の一つに数えられる五百羅漢があるのですが、三密を避けるために拝観は中止されていました。

羅漢像ってひとつひとつが個性的で好きなんですけどね。残念でした。

 

境内から奥に進むと仙波東照宮があります。

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今年は紫陽花の時期が遅かったのでしょうか。

色鮮やかに紫陽花が咲いていました。
この仙波東照宮ですが、東照宮天海僧正というワードに繋がりを見出した人は鋭いです。

東照宮日光東照宮久能山東照宮に代表されるように、徳川家康を祀った神社です。

当初、静岡の久能山に葬られた家康ですが、日光に改葬されることになり、移送中の遺骸がこの地に留められたのです。

家康からの信任厚い天海僧正の由縁があって、この喜多院の境内が選ばれたのでしょう。

そして、それがきっかけとなって家康を祀る東照宮が造営されたのです。

 

このあとは川越氷川神社に行こうと思っていたのですが、

どうも人気のスポットかつ狭いので密な気がしてきました。

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(以前に行った時の写真です。)

恋愛成就の霊験には是非ともあやかりたいことこのうえないのですが、

久々の散策なので、体力も落ちているのか疲れました。

駅方面に歩いて休憩場所を探します。

 

クレアモール

川越の中心部、クレアモールまで戻ってきました。

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埼玉県では大宮に次ぐ規模の商店街だそうです。

先ほどまで歴史的な街並みにいたのがウソのような街並みです。

学校帰りの高校生たちがタピオカを片手にはしゃいでいます。

戦後の川越の商業はここが中心ですが、古臭さはあまり感じません。

昭和期から適度に更新され、若者のトレンドをしっかりつかんでいる気がします。

1キロ以上続くクレアモールの先には主要ターミナルの川越駅があり、

近代的な駅ビルがそびえ立っていました。

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足腰健康の神様を祀るという川越八幡宮まで歩き、今後も日本全国を旅できることを祈願します。

ここも紫陽花がきれいに咲いていました。

行ったり来たりですが、そのあとクレアモールの喫茶店で休憩して、川越の散策を終えました。 

 

3度来てわかった川越の凄さ

最初に述べた通り、川越には2回来たことがあります。

しかし、いずれも本格的に旅を始める前でした。

初回はまあまあ感動した覚えがあるのですが、2回目は「都内から近い観光地」程度の認識で侮っていたところがありました。

でも、ほかの街を何か所か見てきて、今だからこそわかりました。

川越の凄さは凝縮された歴史の積層性です。

この記事の中で目まぐるしく時代を行ったり来たりしています。

整理してみましょう。

 

江戸期~明治期 蔵の街(川越一番街商店街)

大正期     大正浪漫夢通り

昭和期~平成期 クレアモール・川越駅周辺

 

これらが徒歩圏内にあるのは驚くべきことです。

蔵の街単体も凄いですが、それだけでは見落としてしまう魅力があると考えます。

 

川越は今やJR、西武線東武線が通う主要ターミナル。

今でも発展は続き、人口も増加しています。

基本的に発展と古いものが共存するのはやはり稀なのではないかと思います。

発展は更新を伴うことが大抵です。

古いものが残ることは開発から取り残された結果とも言えます。

もちろん、その限りではないですし、様々な事情もありますけどね。

 

蔵の街は川越商人たちの舟運で栄えた名残です。

しかし、舟運はもはや過去の産業です。

今でも河川の舟運が産業の中心という日本の街を、私は聞いたことがないです。

川越商人の富や地位がすべて失われたわけではありませんが、

その移り変わりを絡めたまちづくりの視点からの川越の研究は多いです。

 

思えば北から、蔵の街→大正浪漫夢通り→クレアモール→川越駅という順番で立地しています。

川越の富は新たな交通の要衝、南側の駅へと急速に移ろいました。

大正浪漫夢通りはその過渡期ですかね。

これで北側の蔵の街は開発から取り残されたことになりますが、

南側の開発が進めば、発展が続く以上は北にも影響が及びます。

すんでのところで保存の機運が高まったのは、幸運といえるでしょう。

www.jichiro.gr.jp

経緯は市教育委員会のレポートにまとめられています。

蔵の街の保存は、川越に「観光」という新たな産業を誕生させました。

蔵の街も駅周辺も時代は違えど、商業で栄えたエリアです。

ところが蔵の街が観光、駅周辺が商業と棲み分けることになりました。

富は市内で奪い合うものではなくなったのです。

このことが積層的な歴史を感じさせる川越の特異性を生み出したのではないでしょうか。

 

観光の富は言うまでもなく都内からの富です。

その点では都内近郊の立地は恵まれていることは間違いないですが、

舟運や城下町としての繁栄も江戸との交流の歴史です。

近さが歴史の連続性を露わにし、ストーリー性まで与えるのだからやはり穴がないのです。 

 

移り変わる時代を積層して具現化する川越。

江戸、明治、大正、昭和、平成、そして令和になりました。

川越はまた新たに令和の街並みをこれから紡ぐのでしょう。

そう考えると、また川越に行ってみたくなります。

4度目が楽しみになりました。

 

 

 

 

 

…………翌週、終電で寝過ごして深夜の川越に放り出されたのはまた別のお話。