心憂しども旅路は続く

稼いだ日銭で国内を旅する24歳サラリーマンの雑記。

川越② ~時代は移ろい、街に積もりゆく~

前回の記事 ↓

 

travelthinking-mp3.hatenablog.com

 

川越の蔵の街を散策してきました。

ここからはメインの通りを抜けて路地裏に入ります。

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通りを抜けても石畳のいい雰囲気が残っています。

ぶらぶらと歩きながら、次の目的地を探します。

どのみち日帰り旅です。時間はあります。

のんびりと菓子屋横丁まで歩いていくことにしました。

 

菓子屋横丁

蔵の街が残る一番街商店街から路地裏を抜けること数百メートル。

新河岸川のほとりにほど近い菓子屋横丁までやってきました。

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その名が示す通り、細い通りに駄菓子屋がひしめき合っています。

ここは養寿院という寺院の門前、江戸時代から菓子の製造が盛んだったそうです。

関東大震災で東京が大打撃を受けたのちは、ここから駄菓子の供給地点として一層発展を遂げたとのこと。

でも、ここは2015年に火災が起き、何店舗かが焼ける被害に遭いました。

火災後に来た思い出があるのですが、確かに灰燼と化してしまったお店があった気がします。

それ以来ですが、横丁は見事な復活を遂げていたように思います。

火災の面影はどこにもありませんでした。

さて、ここまで歩いてきて、体が火照っています。

名物のサツマイモを使ったソフトクリームで一休みです。

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自然な甘さが歩き疲れた体に染みわたります。

新河岸川のそばのベンチでソフトクリームを食べました。

新河岸川といえば、板橋区高島平あたりの工業地帯のイメージでしたが、

ここまで遡ると水の澄んだ小河川でした。

かつてはここが江戸と結ぶ主要なルートだったのです。

サツマイモも舟運で江戸に運ばれて評判になりました。

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すぐそばにある養寿院の境内では紫陽花が咲いています。

てっきり紫陽花の季節にはもう遅いと思っていたのですが嬉しい誤算です。

ここで私はひらめきました。

確か川越には紫陽花の名所があったはず。

スマホで調べたところ、もと来たところを引き返したところです。

休憩を済ませてからそちらに向かうことにしました。

 

喜多院

蔵造りの街並みを通り過ぎ、大正浪漫の街並みを通り過ぎ……

2キロほど歩いたでしょうか。

喜多院まで戻ってきました。

川越大師の名でも知られる寺院です。似ていますが、川崎大師ではないです。

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広い境内は市民の憩いの場でもあるようです。

ここは徳川家康から絶大な信頼を受けていた天海僧正ゆかりの寺です。
名物といえば「日本三大羅漢」の一つに数えられる五百羅漢があるのですが、三密を避けるために拝観は中止されていました。

羅漢像ってひとつひとつが個性的で好きなんですけどね。残念でした。

 

境内から奥に進むと仙波東照宮があります。

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今年は紫陽花の時期が遅かったのでしょうか。

色鮮やかに紫陽花が咲いていました。
この仙波東照宮ですが、東照宮天海僧正というワードに繋がりを見出した人は鋭いです。

東照宮日光東照宮久能山東照宮に代表されるように、徳川家康を祀った神社です。

当初、静岡の久能山に葬られた家康ですが、日光に改葬されることになり、移送中の遺骸がこの地に留められたのです。

家康からの信任厚い天海僧正の由縁があって、この喜多院の境内が選ばれたのでしょう。

そして、それがきっかけとなって家康を祀る東照宮が造営されたのです。

 

このあとは川越氷川神社に行こうと思っていたのですが、

どうも人気のスポットかつ狭いので密な気がしてきました。

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(以前に行った時の写真です。)

恋愛成就の霊験には是非ともあやかりたいことこのうえないのですが、

久々の散策なので、体力も落ちているのか疲れました。

駅方面に歩いて休憩場所を探します。

 

クレアモール

川越の中心部、クレアモールまで戻ってきました。

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埼玉県では大宮に次ぐ規模の商店街だそうです。

先ほどまで歴史的な街並みにいたのがウソのような街並みです。

学校帰りの高校生たちがタピオカを片手にはしゃいでいます。

戦後の川越の商業はここが中心ですが、古臭さはあまり感じません。

昭和期から適度に更新され、若者のトレンドをしっかりつかんでいる気がします。

1キロ以上続くクレアモールの先には主要ターミナルの川越駅があり、

近代的な駅ビルがそびえ立っていました。

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足腰健康の神様を祀るという川越八幡宮まで歩き、今後も日本全国を旅できることを祈願します。

ここも紫陽花がきれいに咲いていました。

行ったり来たりですが、そのあとクレアモールの喫茶店で休憩して、川越の散策を終えました。 

 

3度来てわかった川越の凄さ

最初に述べた通り、川越には2回来たことがあります。

しかし、いずれも本格的に旅を始める前でした。

初回はまあまあ感動した覚えがあるのですが、2回目は「都内から近い観光地」程度の認識で侮っていたところがありました。

でも、ほかの街を何か所か見てきて、今だからこそわかりました。

川越の凄さは凝縮された歴史の積層性です。

この記事の中で目まぐるしく時代を行ったり来たりしています。

整理してみましょう。

 

江戸期~明治期 蔵の街(川越一番街商店街)

大正期     大正浪漫夢通り

昭和期~平成期 クレアモール・川越駅周辺

 

これらが徒歩圏内にあるのは驚くべきことです。

蔵の街単体も凄いですが、それだけでは見落としてしまう魅力があると考えます。

 

川越は今やJR、西武線東武線が通う主要ターミナル。

今でも発展は続き、人口も増加しています。

基本的に発展と古いものが共存するのはやはり稀なのではないかと思います。

発展は更新を伴うことが大抵です。

古いものが残ることは開発から取り残された結果とも言えます。

もちろん、その限りではないですし、様々な事情もありますけどね。

 

蔵の街は川越商人たちの舟運で栄えた名残です。

しかし、舟運はもはや過去の産業です。

今でも河川の舟運が産業の中心という日本の街を、私は聞いたことがないです。

川越商人の富や地位がすべて失われたわけではありませんが、

その移り変わりを絡めたまちづくりの視点からの川越の研究は多いです。

 

思えば北から、蔵の街→大正浪漫夢通り→クレアモール→川越駅という順番で立地しています。

川越の富は新たな交通の要衝、南側の駅へと急速に移ろいました。

大正浪漫夢通りはその過渡期ですかね。

これで北側の蔵の街は開発から取り残されたことになりますが、

南側の開発が進めば、発展が続く以上は北にも影響が及びます。

すんでのところで保存の機運が高まったのは、幸運といえるでしょう。

www.jichiro.gr.jp

経緯は市教育委員会のレポートにまとめられています。

蔵の街の保存は、川越に「観光」という新たな産業を誕生させました。

蔵の街も駅周辺も時代は違えど、商業で栄えたエリアです。

ところが蔵の街が観光、駅周辺が商業と棲み分けることになりました。

富は市内で奪い合うものではなくなったのです。

このことが積層的な歴史を感じさせる川越の特異性を生み出したのではないでしょうか。

 

観光の富は言うまでもなく都内からの富です。

その点では都内近郊の立地は恵まれていることは間違いないですが、

舟運や城下町としての繁栄も江戸との交流の歴史です。

近さが歴史の連続性を露わにし、ストーリー性まで与えるのだからやはり穴がないのです。 

 

移り変わる時代を積層して具現化する川越。

江戸、明治、大正、昭和、平成、そして令和になりました。

川越はまた新たに令和の街並みをこれから紡ぐのでしょう。

そう考えると、また川越に行ってみたくなります。

4度目が楽しみになりました。

 

 

 

 

 

…………翌週、終電で寝過ごして深夜の川越に放り出されたのはまた別のお話。