心憂しども旅路は続く

稼いだ日銭で国内を旅する24歳サラリーマンの雑記。

【旅考】旅と観光について考える

前回の旅考 ↓

travelthinking-mp3.hatenablog.com

 

旅の目的って人それぞれですよね。

絶景、歴史、温泉、食事……………

でも、これらをあえてひっくるめて言うなれば、なんという言葉が適切でしょうか。

意見はあるかもしれませんが、やっぱり「観光」でしょう。

観光協会、観光バス、観光案内所、観光ガイド、、、

「観光」という文字があらゆる旅の要素を内包しています。

絶景協会、歴史バス、温泉案内所、食事ガイド、、、

置き換えると、これはこれで一点突破で面白そうですが、

やはり旅の目的の多様性をイメージはできませんね。

「観光」という2文字でそれぞれが旅の目的を勝手に置き換えてくれる、なかなかに便利な言葉です。

 

今日はそんな「旅と観光」について考えます。

 

はじめに、今回考える「観光」とは、「観光業」ではありません。

つまり、産業としてではなく、概念としての観光をテーマにします。

観光業のほうがいまはコロナやらGoToトラベルやら、タイムリーな話題ではあるのですが、まあ先に書きたいと思ったことを優先しようと思います。

こんな感じでゆるくやっていきます。

 

まず、「観光」の辞書での意味を引用してみましょう。

 

かん‐こう観光クワンクワウ 他の土地を視察すること。また、その風光などを見物すること。観風。「名所旧跡を―してまわる」

広辞苑(第6版)』(2008)岩波書店

 

広辞苑先生が言うには、「他の土地を視察すること、その風光を見物すること」、だそうです。

「旅」の意味も辞書で引いてみましょう。

 

たび】 住む土地を離れて、一時他の土地に行くこと。旅行。古くは必ずしも遠い土地に行くことに限らず、住居を離れることをすべて「たび」と言った。万葉集2「家にあれば笥に盛る飯いい草枕―にしあれば椎の葉に盛る」。「―に出る」

広辞苑(第6版)』(2008)岩波書店

 

こちらは「一時他の土地に行くこと」、となっていますね。

旅のほうが漠然としています。

要するに、先に述べた絶景、歴史、温泉、食事といった要素を「観光」が内包し、さらに「観光」を「旅」が内包しているというイメージになります。

「絶景」ひとつを例にしてもいろいろあります。

深山の渓谷、一面の雪景色、雄大な海岸、眩い夜景、、、

ひとつひとつの要素もさらに様々な要素を内包する入れ子構造です。

深山の渓谷、、、層雲峡、奥入瀬養老渓谷大歩危、高千穂、、、

と、さらに想像した人もいるかもしれませんね。

マトリョーシカのごとく、要素は小さく細分化され、内包されています。

 

では、再び「観光」の地点まで話を戻しましょう。

「旅」が「観光」を内包するということは、要素の大きさとして「旅>観光」と表せるかと思います。

ここで一つ疑問があります。

「旅=観光」でないなら、他の要素も「旅」に内包されていることになります。

辞書的な意味は「一時他の土地に行くこと」です。

そう考えるなら、日々の通勤通学、買い物、友達の家に行く、

そういったことも「旅」に内包されるのかもしれません。

 

でも、やっぱりしっくり来ませんね。

辞書的な意味から離れて使われているのかもしれないです。

そこを自分なりにさらに考えてみます。

 

ひとつ考えたのは、「観光」という言葉が他に内包されるべき言葉と区別されていないという可能性です。

「観光」という語が変容している可能性もあります。

ここで今回のテーマに繋がります。

「観光」という言葉の語源から紐解いてみましょう。

 

観国之光 利用賓于王

(国の光を観る、用て王に賓たるに利し)

易経』より

 

なんと、古代中国の古典、五経の一つ『易経』が語源とされています。

意味は「国の威光を見て回ると、王に重用される存在になれるよ」みたいな感じでしょうか。

それが日本で引用されることになったきっかけは幕末、

オランダから幕府に贈呈された軍艦に「観光丸」という名前をつけたことだと言われています。

つまり、「観光」は幕末や明治の富国強兵、殖産産業、欧米列強に追いつき追いこせの時代に、個人のレジャーではなく「お国のために」の自己研鑽としての意味合いを持っていました。

江戸時代にも「漫遊」とか「物見遊山」という言葉がありましたが、そちらのほうが今の「観光」に近い言葉かもしれません。

福沢諭吉の『西洋事情』のなかでも、「各国の政治風俗を観る」という意味で「観光」という語を使っている箇所があります。

それが取って代わったのは明治後半から、経済発展と鉄道敷設によって、旅は伊勢参りや善行寺参りのような人生の一大イベントから気軽なレジャーになっていきます。

そのなかで「観光」という言葉もレジャー化していきます。

そして、戦後、高度経済成長の中で「観光」は国の産業として位置づけられます。

1969年、観光政策審議会によって「観光」はこのように定義されます。

観光とは、自己の自由時間(=余暇)の中で、鑑賞、知識、体験、活動、休養、参加、精神の鼓舞等、生活の変化を求める人間の基本的欲求を充足するための行為(=レクリエーション)のうち、日常生活圏を離れて異なった自然、文化等の環境のもとで行おうとする一連の行動をいう。

観光政策審議会答申(1969)「国民生活における観光の本質とその将来像」

さらに1995年にも審議会によって再定義されます。

観光とは、余暇時間の中で、日常生活圏を離れて行う様々な活動であって、触れ合い、学び、遊ぶということを目的するもの。

観光政策審議会答申(1995)「今後の観光政策の基本的な方向性について」(答申第39号)

 

さて、ここまで「観光」という語の変容に触れました。

おおよそ3つの定義に分類できるかと思います。

 

①語源としての「観光」(国の威光を見て回る自己研鑽)

②辞書的な意味としての「観光」(他の土地を視察、見物すること)

③政策としての「観光」(日常生活圏を離れて行う余暇の活動)

 

この中で、現代の私たちは③の意味で「観光」という語を使っています。

②に少し違和感があるのは、「視察」「見物」に、体験的、あるいは精神的な行為としての意味が入っていないと感じるからではないでしょうか。

そう考えると、「旅」に内包される「観光」は辞書的な意味より拡がりを見せている、ということになります。

ひとつの自分なりの答えとして、「旅>観光」というよりかは「旅≧観光」

「旅」に内包されていた観光以外の要素もニーズが多様化、顕在化していく中で、「観光」という便利な言葉がひっくるめて意味合いを持つようになったのではないでしょうか。

そして、その拡がりは今や「旅」に肉薄する勢いなのではないでしょうか。

 

………でも、まだ違和感があります。

「観光」という語の意味が拡がりを見せている、ということを自分なりの論拠で示したつもりですが、ともすると、それは「観光」という語の本来の意味からは離れてきているということでもあります。

言葉は変化するものです。

それは良いも悪いもなく自然の摂理のようなものです。

しかし、①のとおり、「国の威光を観ること」ならば、やはり違うと言わざるを得ないでしょう。

荒唐無稽と笑われるかもしれませんが、あえて私は拡大した「観光」を分断して再定義してみることにします。

 

まず、違和感の正体ですが、「観光」という字面にあるのかもしれません。

「光を観る」ですからね。

先述のとおり、「光」とは国の威光を指すわけですが、今や旅先で観るのは光ばかりではありませんよね。

夕張を旅した記事を書きました。

travelthinking-mp3.hatenablog.com

そこで観たのは威光とは程遠いものです。侘しいものです。

でも、それでも②と③の意味をとるならば「観光」には違いありません。

他にも、学生でインドを旅する人がよくいますよね。

ガンジス川で沐浴していたり、死体が浮かんでいたり、信仰の場となっているのを観て、死生観なんかに影響を受けるわけです。

でも、国やその地域の光かといえば、そうとは言い切れないかと思います。

 

1990年代イギリスでは「ダークツーリズム」という言葉が誕生します。

戦跡や災害被災地など、人々の悲劇や死、過ちに関する場所を訪問する観光のことをいいます。

代表的な場所としては、アウシュビッツ強制収容所チェルノブイリ原発事故現場、日本では広島の原爆ドームがその最たるものです。

もはや誇れるものだけが観光の対象ではありません。

それだけ、旅のニーズが多様化、顕在化した証左でもあります。

ただ、そういった側面が出てくると「観光」の語源と離れていくわけです。

「ダーク」はもちろん「闇」ですからね。

 

誰もが過去の歴史を省みることを目的に旅をしているわけではないと思います。

とはいえ、かつては「観光」が相応しかった場所も今やどうでしょう。

私個人の浅薄な知識でも、旅先でいろいろなことを考えさせられるのです。

過疎化、少子高齢化地域格差……否が応でも目に映るものが示しています。

そんな時、社会問題だけでなく、自分個人の問題を考えることもあります。

 

私はそこに「観光」に含まれている「観光以外のもの」がある気がします。

先ほどの「闇」というほどのものではありません。

でも、「光」があれば「カゲ」ができるものです。

その「カゲ」を観るという行為に、「観陰」とか「観影」という言葉を与えるのが相応しいと思います。

 

私は「観光」と「観陰」(あるいは「観影」)のどちらが優れているとか、そういう話がしたいわけではありません。

ただ、「観光」という語に感じる違和感をもとに、新たに分断して名前を付けてみた、というだけの話です。

学術的な話だと言ったら、国語学者に辞書の角で思い切り殴られるでしょう。

 

でも、私たちは観光をするときに、確かに「カゲ」を観ています。

私自身「光」が大好きですが、「カゲ」からも目を背けることができないのです。

この二つは双極に位置するものではないと考えます。

「光」と「カゲ」は同時に存在するものですしね。

「旅」で目にする心を照らすような「光」とその一方でどこかに必ず存在する「カゲ」。

そんな「観光」と「観陰」という二つの行為が、私なりの「旅」に内包された要素です。