心憂しども旅路は続く

稼いだ日銭で国内を旅する24歳サラリーマンの雑記。

川越① ~身近といえど侮るべからず~

コロナ禍も少し落ち着いてきた最中、

近場に日帰りで繰り出すことにしました。

行先は電車で一本。普段と逆方向に揺られます。

 

都心郊外の街並みから農村風景に変わり、それからまた郊外の街並みに変わりました。

あっという間にたどり着いたのは埼玉・川越。

小江戸として知られる町です。

都内からの日帰り旅の定番中の定番です。

すでに2回ほど来たことがありますが、また違う発見もあるかもしれません。

そんな期待を込めて、駅から散策を始めます。

初夏にしては強い日差しの日でした。

蒸れて仕方がないのですが、マスクはしっかりと着けました。

 

大正浪漫夢通り

からしばらく歩いていくと、新しいマンションに交じって古い建物がぽつぽつと見受けられるようになります。

途中、いい雰囲気のお寺を見つけました。

散策中、寺社仏閣にはとりあえず入っちゃいます。

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蓮馨寺という浄土宗系の寺院です。

「おびんずる様」というお釈迦様の弟子の像が鎮座しており、病気の治癒に効果があるんだとか。

この時世です。おびんずる様も奮闘していることでしょう。

頑張ってほしいという気持ちと、余計なお世話でしょうが無理しすぎないでという気持ちが半々です。

医者の不養生ならぬ仏の不養生では、現し世の私たちもちょっと不安ですからね。

ちなみに「びんずる」は「賓頭盧」と書くみたいです。

 

蓮馨寺からほど近いところにレトロな雰囲気漂う通りがあります。

それが大正浪漫夢通りです。

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短い通りですが、大正から昭和初期の店舗が密集しています。

所謂「看板建築」と呼ばれる洋風の自由な店構えです。

コーヒーよりは「珈琲」、食堂よりは「パーラー」。

そんな呼び方がしたくなる、おしゃれな意匠が凝らされています。

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なかでも通りの角にある武州銀行川越支店ルネサンス調建築は見事なものです。

今では川越の商工会議所として使われています。

こうして今もなお大事に使われているのはとてもいいことです。

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武州銀行の真向かいにはさっそく古い建物が出迎えます。

さて、ここからは川越の真骨頂、蔵の街までもうすぐです。

 

蔵の街・川越一番街商店街

さて、蔵の街までやってきました。

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重厚な造りの蔵がびっしりと建ち並んでいます。

黒々とした漆喰や瓦がどっしりとした格好良さを与えています。

大学一年生の時、この格好良さはあまり理解できなかった気がします。

私自身に「世界が変わった」なんて劇的な変化はありませんが、

それでも旅をすると視点くらいは変わるものなのでしょう。

小市民にはちょうどいい成長ですかね。

それにしても、どうして川越にこの街並みが形成されたのでしょうか。

 

川越は舟運で江戸期から栄えた商業の街です。

「川越商人」という言葉ができるほどの富がこの地にもたらされました。

江戸とのつながりの中で蔵造りの建物がこの地にも建ちます。

ところが、明治時代に川越を大火が襲います。

燃え残ったのは蔵造りの建物でした。

蔵は耐火建築としての役割があります。

蔵に使われる漆喰は水酸化ナトリウム、要は石灰です。

燃えにくいから大事なものを貯蔵するのに蔵は使われるわけです。

そこに着目した川越商人たちは蔵造りの建物を続々と建てました。

さらには自身の富を顕示するためにも意匠はより豪壮なものにと、

凝るようになり今の街並みが形作られたのです。

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その象徴的な部分です。

2階の窓には観音開きの扉が、屋根の端には分厚い鬼瓦が付いています。

ある意味、機能的にはなくてもいい部分なのかもしれません。

でもそこにこだわるから川越なのでしょう。

オードリー春日は川越に感動して鬼瓦の一発ギャグを思いついたとかつかなかったとか。

 

冗談はさておき、川越のランドマークといえば時の鐘です。

f:id:chiita1996:20201018114700j:plain現存するものは明治の大火後の再建で、4代目だそう。

さかのぼるとこの地に川越城があった江戸時代からの歴史があります。

侍も聞いた鐘の音は、今も川越で1日4回鳴っています。

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時の鐘のそばでひと際目を引くのはカタカナで書かれた「フカゼン」の文字。

ここは 250年以上続く美術用品店です。

川越の蔵は「店蔵」とか「見世蔵」といわれるタイプのものです。

つまり、貯蔵庫ではなく店舗として使われてきたということです。

田舎の古民家の離れにある土蔵とはまた異なるものです。

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蔵造りの街並みから一歩引くようなところで異彩を放つこの建物。

こちらはなんと埼玉りそな銀行の川越支店です。

今年の6月まで有人店舗として、いまは移転に伴いATMコーナーとなっています。

こちらも川越商人の出資に伴い建てられた国立銀行が元です。

 

川越の蔵の街のエリアは「重伝建」といいます。

正式名称は重要伝統的建造物群保存地区です。

長いので重伝建とよく略されます。

詳しくは文化庁のHPで。

www.bunka.go.jp

のちのち、重伝建をテーマに何か書こうと思います。

調べてみると、なかなか面白いんですよね。

とりあえずは「文化庁が指定する、保存する価値が高いと認められた歴史的街並み」ということです。

 

 ②に続きます。

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【旅考】旅と考えることについて考える

初めてこのブログで旅行記を書ききりました。

記念すべき1記事目です。

④までありますが、読んでいただければ。

 

travelthinking-mp3.hatenablog.com

 

これからも旅行記を少しずつ書いていくつもりですが、

並行してコラムというかエッセイというか、

とにかく旅について何か考えたことも書いていこうと思います

 

題して「旅考」です。

「りょこう」だとなんか意図せずしてダジャレみたいになっちゃいますね。

まあ「りょこう」でも「たびこう」でもどっちでもいいかなあ、と。

ただ、何も考えずにこの題にしたわけではありません。

このブログのアドレスには「travelthinking」という文字が含まれています。

旅を通して、何かを考えたいのです。

それが無数にある旅のスタイルの中で自分が目指すものなのだろうと思います。

まあ、考えるだけならタダですしね。

でも考えてるだけだと陽の目を見ることは一生ありませんので、

こうしてアウトプットのためにブログを始めた次第です。

 

というわけで初回のテーマは「旅と考えること」です。

 

初めに言っておくと、私は哲学者でも文学者でも史学者でもないです。

まあ、そんな勘違いをする人は万が一にもいないと思いますが。

うだつの上がらない、残業に苦しむしがないサラリーマン2年生です。

だから、ここでいう「考えること」なんて大層なものじゃないです。

敷居は低ければ低いほどいいのです。

敷居が高かったらまず自分がそんなことできません。

 

そもそもが、ちょっと語弊があるかもしれません。

旅は勝手に考えさせてくれるのです。

でもそれには少々コツというか、見方を変える必要があります。

その方法をお話ししようと思います。

あくまでこれは私の一例に過ぎないので、鼻で笑ってもらって問題ないです。

 

まず何を考えるのか。何でもいいです。

ただ、自分の興味の及ばないことを考えるのは苦痛になると思います。

最初は自分が興味あることだけでいいと思うのです。

初めは私もきれいな景色を観たいくらいにしか思ってないです。

しかし、人間誰でも人生の中で蓄積があります。

学校の勉強、読書に音楽、スポーツにゲーム、友達との何気ない話……

志向性といいますか、自然とアンテナが向くものがあると思うのです。

なんか惹かれる、それで十分考えることの対象になりえます。

 

意外とそういうものってありふれているのかもしれません。

でも、案外意識をしないと盲目なものなんですよね。

その点で、旅先っていうのは適した環境だと思います。

当たり前ですが、見るものすべてが新鮮ですから。

目に飛び込んでくるものが勝手に考えさせてくれる、

それが旅の効能といいますか、私の好きなところです。

 

ふわふわと、漠然とした話をしてるなあと自分でも思います。

でも、具体例を出すと、読んだ人の考えることのイメージが固定化されてしまうんじゃないかという危惧も私なりにあるのです。

とはいえ、敷居は低ければ低いほど言いと前言もしてますので、

あまり毒にも薬にもならないような例を出すことにします。

 

海沿いの街にいます。

ぶらぶらと歩いていると、古い民家が多くあります。

よく見ると、どの家も高い塀がこしらえてあります。

 

ここから考えられることはいろいろあると思います。

いちばん可能性が高いかなあと思うのは、風よけですかね。

日本海側なら吹き付ける雪、太平洋側なら台風かもしれません。

でも、そうじゃないかもしれません。

もしかしたら泥棒が多い地域で防犯意識が高いのかもしれません。

塀の材料の石がたくさん産出されるのかもしれません。

同じ職人さんが作ったから似通っているのかもしれません。

もしかしたら単に思い違いかもしれません。

 

あくまで見たものから考えるだけなので、自己満足です。

正しい答えにたどり着くかはわかりません。

でも、それでいいのだと私は思います。

もちろん、スマホのある時代ですから間違っても考えは修正できます。

その努力だけは怠ってはだめだと思います。

とはいえ、考えを巡らせていると思わぬところで答えにたどり着くこともあります。

その瞬間はなかなかに快感です。

 

ここまで外向きの考えることについて書いてきました。

対象は旅先の五感に触れるものです。

でも、別に内向きの、自分のことを考えるのにも適した時間なのは言うまでもないです。

傷心したとき、人生の転機、人々は昔から旅という手段をもって自分を見つめ直しました。

身近にもそういう人いるなあと思うことでしょう。

聞きかじっただけですが、「脳は新しもの好き」といいます。

いつもと違う街、違う道、違うにおい、そんな環境だと脳が活性化するというのはなんとなくわかる気がします。

普段は及ばないところまで思考が働くのはそのためかもしれません。

エビデンスがあるかはわかりませんので、その点は留意してください。

 

そして、旅は考えないことにも向いています。

ここまでの論を真っ向から否定しているわけではありません。

でも、あらゆる社会性から解き放たれたような気持ちにならないと、

頭を空っぽにできないという時もあると思うんです。

実際は、社会性は旅でもついて回るのですがね。

でも、「解き放たれたような」でも現代社会では十分なのだと思います。

それも一つのスタイル、醍醐味です。

 

外向きに考えること、内向きに考えること、考えないこと。

いずれにしても旅は最適なのです。

何回か私も旅をしてきました。

そのなかで当初とは思いもよらないところへ興味関心は広がっています。

考えてきたお陰かなあと思う節があります。

自己完結するものなので、得をするようなことはないんですけどね。笑

自己啓発だとか、ライフハックとか、大層なことではないです。

そういうのを求めててこの記事にたどり着いた人がいるのなら、謝らないといけないかもしれないですね。

ただ、これを日常生活に敷衍できればそれなりには役に立つのではと考えます。

 

でも、やっぱり楽しいからやっているのです。

そして、これからも考えながら旅をしていきたい、心からそう思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夕張④ ~夕張に待ち人は来たるのか~

前回の記事 ↓

 

travelthinking-mp3.hatenablog.com

夕張駅

夕張駅まで戻ってきました。

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時計台のような、こじんまりとした瀟洒な駅舎です。

駅付近にはもうじきの別れを悼む鉄道ファンが集まっています。

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駅舎の後ろには「ホテルマウントレースイ」。

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ホテルの後ろにはスキー場が広がっています。

雪質は悪くなさそうですが、いかんせん滑っている人が少ないです。

広大なゲレンデに人影はまばらでした。

 

このホテルと夕張駅には深いつながりがあります。

というのも、実はこの夕張駅は3代目なのです。

初代は現在の石炭博物館付近、2代目は先ほどまで散策していた本町付近にあったのです。

その後、リゾート開発に伴い、マウントレースイ前に路線が短縮され駅ができました。

これが3代目の夕張駅です。

さて、駅の中も覗いてみましょう。

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ちょうど列車が駅を発つ時間でした。

ここでも黄色いハンカチがシンボリックに掲げられていました。

続々と人々が乗り込んでいきますが、この列車は見送ります。

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列車が発つと一転して静かな空間に変わりました。

26日後にこの街から鉄路が消える、そう考えると不思議な感じがします。

「Restartまであと26日」。

聞こえはいいですが、再出発、即ち一度は終わるということです。

これは夕張全体に向けてのメッセージなのでしょうか。

覚悟のようなものを感じとるのは考えすぎなのでしょうか。

 

日も落ち、冷えてきたのでマウントレースイの温泉に浸かりました。

racey.yubari-resort.com

料金は700円。露天風呂もあるとはいえやや高い印象ですが、夕張市独自の入湯税が150円含まれています。

市民サービスの維持のためには、増税もやむを得ないのでしょう。

その後は駅前の「ゆうばり屋台村」で夕食にします。

ここまでまともにお金を落としていないので、お酒もしこたま飲みました。

いろいろ考えていたのですが、酔いも回ると「酒最高」としか考えられなくなりますね。ザンギでビールが進むこと。

www.city.yubari.lg.jp

※訪れた時には5店舗ほどが営業していた記憶があるのですが、2020年現在3店舗しか営業していないようです。

 

終電ぎりぎりまで飲んで温まってから、暗闇の中の列車に乗り込みました。

そこからのことはよく覚えていません。

薄れゆく意識の中で、私と同じように酒を飲んでいた地元のおじさん二人組が清水沢の付近で降りて行ったような気がします。

鉄路がある街の当たり前の風景です。

気が付くと、終点の追分駅。いつの間にかまどろんでいました。

駅員さんに起こされて、苫小牧行きの千歳線に乗り換えます。

乗り換え時間はわずかだったので、慌ててホームへ飛び出しました。

こうして最後は余韻に浸る暇もなく、夕張への旅は終わったのでした。

 

夕張の未来と黄色いハンカチ

物思うことの多かった夕張への旅。ここで総括します。

まずは財政破綻することになった歴史について触れます。

yubaricci.sakura.ne.jp

その経緯について、商工会議所のHPにまとめられています。

まとめますと、

1.炭鉱都市として急激に発展するも炭鉱が閉山

2.新たな産業として観光に過剰投資するも失敗

3.増大した人口に合わせていた行政支出の不均衡

4.赤字財政を不適切な処理でごまかし続けて悪化

5.下がり続ける市民サービスで人口と税収の更なる流失と減少

…………負のスパイラルといっても過言ではないですね。

かつて11万6千人いた人口も今や8千人を割っています。

夕張は言うまでもなく、炭鉱を中心とした産業の街でした。

私は産業に特色のある街が大好きです。

でも、その産業を失ったとき、街が衰退してしまうのは自明のことです。

バブル期ということも考えて、当時の市政が観光に舵を切るのもわからなくはない気がします。

そこに住む人々のために、何ができるか。

その選択として市を挙げて、新しい産業へのチャレンジをしたのです。

 

私は経済学やまちづくりを修めた人間ではありません。

夕張が今後どうすべきかなんて語るに値する学もありません。

でも、この街で生きている人々がいる。

そのことに思いを馳せざるを得ないのです。

 

清水沢からのバスに乗り込んできた小学生たち。

私は「救われるような思い」と書きました。

彼らが未来の夕張を担うのかもしれません。

でも、軽々しく彼らを「希望」と呼ぶ気にはなれませんでした。

私も田舎の小都市出身です。

衰退していく様、震災で大きなダメージを受けた様、そして自分も含めて若者が出ていく様を短い間ですが見てきました。

ここで暮らしていくことが彼らのとっての「絶望」であってはならない。

そう強く思うのです。

彼らもこのままだと多くは夕張の街を出るのかもしれません。

 

訪れた当時、夕張市長は鈴木直道氏でした。

鈴木氏は都庁職員から夕張に出向し、そこで夕張の現状を目の当たりにしました。

そして市長選に立候補し30歳にして市長になりました。

自らの給与も70%カットして、精力的に市政改革に取り組んだ結果、

債務を大きく減らすことに成功しています。

ここまでの記事で触れてきた清水沢のコンパクトシティ構想、

そして夕張支線の廃線も「攻めの廃線」として進めてきた政策です。

廃線について、その是非はあると思いますが、

現状から考えて補助金によるバスの拡充のほうが市民生活に即したものかもしれません。

あくまで、両方拡充できるのが交通としてベストなのは間違いありませんが、

それができる自治体は今の日本で指折り数えるくらいしかないでしょう。

現在、鈴木氏は夕張市長を退任し、北海道知事に就任しました。

道知事としても精力的に活動をしています。

若いのに凄いなあ、なんて若者ながら感心してしまいます。

ただ、やはり気がかりなのは鈴木氏の眼に夕張はまだ映っているかです。

知事として夕張を贔屓することが適切ではないのはわかっています。

でも、やはり夕張には鈴木氏が必要だったのではという思いもあります。

とはいえ、いずれにしてもまだ評価には早すぎる気もします。

鈴木氏が蒔いた種が夕張で芽吹く時が来るのかもしれません。

 

ここまで観光産業のこと、子供たちのこと、鈴木市長のこと、いろいろと書きました。

私の中ではいずれも根底するものがあります。

 

 「もし、まだ1人暮らしで俺を待っててくれるなら…鯉のぼりの竿に黄色いハンカチをぶら下げておいてくれ。」

幸福の黄色いハンカチ』で高倉健演じる勇作が妻の光枝に出した手紙です。

以下、ネタバレになるのはご了承ください。

網走刑務所帰りの勇作は、道中出会った欽也(武田鉄矢)、朱美(桃井かおり)とともに3人旅をします。

目的地はかつて炭鉱夫として暮らした夕張でした。

なぜ夕張に向かうのか、旅の道連れに勇作は話します。

人としての道を違えて服役した勇作は妻に別れを告げ、二人は離婚しました。

しかし、不器用な勇作は光枝がずっと気がかりだったのです。

そして、出所直後に上記の手紙を出したのでした。

 

ここまででお分かりかもしれませんが、黄色いハンカチは人を待つ象徴です。

映画のフィナーレ、勇作は諦念に苛まれながらも、欽也と朱美に励まされて夕張にたどり着きました。

そこで目にしたものは空にたなびく何十枚もの黄色いハンカチでした。

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夕張は炭鉱閉山以降、多くの人が去っていきました。

そこで人を呼び込もうと観光産業に舵を切りました。

しかし、上手くはいかず巨額の負債を残すこととなりました。

人々の税負担は増え、市民サービスは下がり続けます。

若者は次々と夕張を出ていき、高齢化が進みました。

そこで救世主のように鈴木市長が現れました。

しかし、改革も道半ば、市長は退任していきました。

新たな産業も、地元に残る若者も、市政の改革者も、夕張はずっと待ちわびていたのです。

それを象徴するかのように黄色いハンカチは街に掲げ続けられてきました。

今の夕張はいったい誰を、何を待ちわびているのでしょうか。

そして、そこに住む人々にも待ちわびている人がきっといることでしょう。

夕張の駅舎に、そして散策中見つけた民家にもハンカチが掲げられていました。

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単なる町おこしかもしれません。

でも、そこには確かな夕張の、そこに住む人々の思いがあるのだと感じます。

清水沢駅で出会ったおじいさんの言葉が思い出されます。

 

「鉄道がなくなってもたまには来てな。」

 

社交辞令だろうが何だろうと、彼もまた待っているのです。

私にも夕張で待ってくれている人がいるのです。

鉄路がなくなった後の夕張がどうなったのか見届けるためにも、

私はきっといつか、夕張に行くのだろうと思います。

 

夕張では今日も、黄色いハンカチが空にたなびいているのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夕張③ ~財政破綻という現実を見つめる~

前回の記事 ↓

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バスの車内にて

清水沢駅前を発車したバスはまあまあの乗車率でした。

ちなみにこのバスは夕鉄バスという会社が運行しています。

「夕鉄」という名が表す通り、かつては鉄道事業者でした。

てっきり先ほどの清水沢駅に発着していた三菱鉱業大夕張鉄道かと思いきや、

北海道炭礦汽船夕張鉄道という別会社が元のようです。

複数の炭鉱路線が乗り入れていた過去の時代が偲ばれます。

鉄道事業から撤退しバス会社になっても鉄道の名を残す会社は結構多いんですよね。

北海道だけでも札幌のじょうてつ(定山渓鉄道)、旭川旭川電気軌道があります。

今でもこうして市民の足として地域交通を担う事業者には頭が下がります。

 

さて、ほどなくしてバスは小学校の敷地へと乗り入れます。

かつては夕張市内だけで25校以上を数えた小学校も、廃校や統合で今やこの1校のみ。

ランドセルを背負った小学生たちが、学校終わりの解放感に顔を綻ばせながら続々と乗り込んできました。

ああ、と思わずホッと息をつきます。

ここまでの散策中にはない賑やかさです。

無意識にここまで何か気を張り詰めていたのです。

子供たちの笑顔で堰を切るように力が抜けました。

子供たちの笑顔はどこの街でも変わらない。夕張でも。

その普遍性に救われるような思いでした。

賑やかなバスは細い谷間を抜けていきます。

また一人、また一人と子供たちは降りていきました。

 

夕張本町地区

夕張駅を通り過ぎ、私は本町地区で下車しました。

その名の通り、夕張の中心地「だった」地区です。

目の前にはホテルシューパロがそびえ立っています。

ここから北に2キロほど行くと、夕張市石炭博物館があります。

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ぜひとも訪問したかったのですが、あいにく冬季休館中。

またの機会に訪れることにして、市街を歩いて南下していきます。

ここからは夕張が直面している現実を目の当たりにする散策となりました。

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夕張は『幸福の黄色いハンカチ』の舞台であるだけでなく、

映画祭の会場になるなど「映画の街」でもあります。

かつては炭鉱労働者の貴重な娯楽でもあったことでしょう。

本町商店街では「ゆうばりキネマ街道」と銘打ち、映画看板を設置しています。

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レトロな映画看板をひとつひとつじっくり観るのは楽しいです。

ただ、やはりというか、人通りはほとんどありません。

調べたところ、映画看板も町おこし当時はもっと多かったのですが、

看板の劣化や建物そのものが取り壊されたりで数を減らしているようです。

この気象条件では長くはもたないものなのかもしれない。

もっとも、薄ぼけた色合いになってそれはそれで味があるのですがね。

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一番気になった看板の『網走番外地 南国の対決』。

網走番外地』がシリーズものなのは知らなかったです。

このメインタイトルで南国に行っているのはさすがに笑っちゃいます。

それでも、監督からキャストまで隙が全く無いのはさすがです。

 

ここからは本町の商店街を抜けたところで引き返し、裏の通りに入ります。

歩いているときに薄々見えていたのですが、凄まじいことになっていました。

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まったくもって人の気配がありません。

轟々と除雪車だけが通り過ぎていきます。

廃墟となってしまった家屋が今にも雪に圧し潰されそうです。

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廃墟に目を向けると猫のねぐらになっていました。

人が消えても建物は誰かのために冬を耐え忍んでいます。

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完全に雪に埋もれてしまった神社。

神主どころかここを訪れる人さえ絶えて久しいようです。

ここが人々の暮らしの中で信仰されていた時代があったはずなんです。

 

正直いたたまれない気持ちになってきました。

夕張ほどの規模はないにしても、北海道には消えた集落がたくさんあります。

その形跡を探すのも難しいくらい、厳しい気候が野に還してしまうのです。

何もしなければ、ただ消えるのを待つだけの街になってしまう。

そうはなってほしくないという思いがあります。

徒然と考えながら夕張駅へと向かいます。

 

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看板を文字通り下ろしてしまった廃医院。

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崩れた家屋。物言わぬ木片となってしまっています。

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巨大な夕張市役所。

といっても、電気がついているフロアはわずかです。

市政は縮小し、人員も相当数減ってしまいました。

 

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民家と民家の間で黄色いハンカチが鮮やかにたなびいていました。

 

④に続きます。

 

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夕張② ~夕張の生き証人と出会う~

前回の記事 ↓

 

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清水沢地区の炭鉱住宅群を歩く

南清水沢駅から夕張川に架かる橋を渡ったところで違和感に気づきました。

その原因はというと、冬の北海道なら当たり前の雪でした。

でも、夕張は明らかに除雪が間に合っていない印象です。

海風が吹き付けるような場所と違って、夕張は山間地なので雪深いのは当然です。

しかし、北海道旅行中に訪れたどの街よりも雪が積もっているのです。

その年、北海道は晴れ続きで記録的な暖冬だったはず。

財政破綻が必要不可欠な市民サービスに影響を及ぼしている、

そう確信をするには十分すぎる光景でした。

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さて、清水沢地区の炭鉱住宅ですが、取り壊しが進んでいます。

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写真ではわかりづらいですが、何か所かが歯抜けのようになっていました。

それとともに、平屋建ての真新しい公営住宅も何か所か目につきました。

古い炭鉱住宅から住民が立ち退き次第、取り壊しているところなのでしょう。

豪雪地帯で人が住んでいない建物を維持することは並大抵のことではありません。

もともとが分譲なのか賃貸なのか気になるところではありますが、

それ相応の補償をして住民が移り住んでいるのであれば悪い話ではありません。

まあ、人口減少の速度からして、おのずと住民が0になった住宅のほうが多いのかもしれませんが、、、

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まだ人がお住まいになっているか、それは容易に区別できました。

最低限、出入り口が除雪してあるかどうかです。

春の雪解けまでこのままなのでしょう。

 

しばらく北に向かって進むと、まだ現役の住宅が増えてきた気がしました。

迷惑をかけないように夕張川沿いに道を外れ、次の目的地に向かいます。

 

旧北炭清水沢火力発電所

炭鉱住宅群から北東方向に炭鉱の歴史を伝える遺産があります。

それがこの旧北炭清水沢火力発電所です。

ただ、ここは閉鎖以後も企業の私有地なので立ち入りはできません。

外観を遠目に見られるところはあるので、そこから眺めましょう。

ちなみに、夏季は予約をすれば内部を見学できます。*1

 

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夕張川の対岸から眺めた発電所です。

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すぐ上流には清水沢ダムが見えます。

ここも水力発電で炭鉱に電力を供給していた炭鉱遺産です。

 

ここからは西進して清水沢駅に向かいます。

途中でセイコーマートがあったので昼食にしました。

北海道において、セイコマは必要不可欠なインフラです。

北海道で食べるホットシェフのカツ丼があんなに美味しいのは何でだろう、、、

濃い目のつゆの味付けが冷えた体に染みるんです。

 

清水沢駅

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清水沢の駅前の様子です。

コンパクトシティの中核に据えているだけあり、現役のお店も多い地区です。

駅巡りをしている鉄道ファンだけでなく、地元の方の人通りもあります。

南清水沢駅から清水沢駅にかけての区間に行政機関や交通結節点を集積させるようです。

 

夕張支線の本数は少ないので、ここからは路線バスで北上します。

しかし、バスの時間までしばらくあるので清水沢駅の構内で休むことにしました。

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清水沢の駅舎を抜けて、ホームに出るとその構内の広さに驚かされます。

単線に不釣り合いな広大な敷地に路線橋の跡もあります。

それもそのはず。かつてはここは複数路線が乗り入れる駅でした。

1987年まで三菱鉱業大夕張鉄道という炭鉱路線が走っていたとのこと。

石炭を積んだ蒸気機関車が噴煙とともにここにやってきたのです。

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駅舎の中には昔の栄華を伝える写真が飾られています。

私はそれをぼんやりと眺めていました。

 

「鉄道が好きなのかい?」

 

ふいに声をかけられました。振り返るとそこにいたのはおじいさんです。

なんと昔は炭鉱関係の仕事をしていたとのこと。

戦後の夕張を知る生き証人なのでした。

 

 

首から提げていたカメラのことで話が弾みます。

昔はフィルムカメラで写真を撮るのが趣味だったと懐かしそうに言いました。

 

「夕張でもな、フィルム買ったり、現像できたんだ。でも、今はもうカメラ屋はない。」

 

そう言うおじいさんの姿は寂しげに見えました。

どれだけネットや物流が発達しても埋まらないものがそこにはありました。

 

おじいさんが駅舎の隅を指さしました。

 

「そこにな、キオスクがあったんだよ。いつ頃だったか、JRになってからもしばらくはあったなあ。」

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思わず本当ですか?と聞き返してしまいました。

 

「まだ今よりもずっと本数も多かったし、ここも賑わっていたよ。」

 

おじいさんはたまに懐かしくなってこうして駅に来るんだそうです。

貴重なお話をお聞かせいただいたことに感謝し、別れを告げました。

 

「鉄道がなくなってもたまには来てな。」

 

ここには確かな人の営みがあるのです。

 

 

③に続きます。

 

 

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